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Runnin' Wild

シン・ゴジラ考察

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今回はネタバレ全開で書くので、観てない人は読まないでねー。

配役について

どの辺からいこうかと思ったけど、まずは配役の話から。石原さとみがなんで必要なのか、あの下手な英語をなんで聞いてなきゃいけないのかと思ってたんだけど(笑)、あの人はアメリカ=ユニバーサルの象徴なのね。だからあんな好き勝手なことができてデタラメなんだ。で、そーいう見方をすると竹野内豊は政治家の象徴。そして長谷川博己は官僚=日本人の象徴。ゴジラ対策室のメンバーなんてヲタクの集まりだし、労苦を厭わずゴジラに勝つために働き続ける製薬会社とか正に日本人。エンドロールでこの3人以外の人は五十音順になっているのは、象徴以外は誰も同じだからということかなぁ。

そして今映画のヒロインは石原さとみじゃなくて市川実日子だ、と俺は思うぞ!

成功の要因

これはひとえに、東宝がすべての責任を持って庵野に丸投げしたことに尽きる。庵野が好き勝手にやって、樋口監督がそれを忠実に再現できたこと。実はこれは今の映画界では結構大変なんだなと思う。

同じ予算で作った「テラフォーマーズ」がなんでダメだったかは前にも感想に書いてるけど、D痛でAベッ苦スでキャストもどこかのアイドルグループの人だったりとか、放浪民族の曲が流れちゃってグダグダ。製作委員会方式は誰も責任を取らないで、自分たちの都合を押し付けるからろくな物にならない。

そして総監督に庵野が決まったときに何が超不安だったのか。それは庵野が「ゴジラの呪縛」から逃れられるのかという点だった。

怪獣映画のマスターピース「平成ガメラ」3部作を撮った金子でさえ、ゴジラを撮る(「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」はこの記事の半ばで紹介)とグダグダになってしまった。それはゴジラという「コンテンツ」に色々な面(子供向け要素ガー、夏休み映画ガー、キャストガー、音楽ガー、おもちゃの販売ガー)があるからで、それらマーケティングを無視して映画を作ることは難しいのが現状だ。もし庵野でさえ、この「ゴジラの呪縛」にやられてしまったら、もうこの国でゴジラを作れる人はいないんじゃなかろーか。だからこそ超不安だったわけで。

今回、東宝としてはコンテンツとして一度は死んだゴジラ(「とっとこハム太郎」のおまけにまで落ちぶれた)なら、もう好きにしていいってことだったんじゃないだろーか。だからキャストにAなんとかの人もいない(実は前なんとかさん出てるんですけどね)し、エンディングテーマも旧ゴジラの曲を集めてある。対策チームに華がない(いや、市川実日子はいいじゃないかという声もw)し、そもそも恋愛もドラマもない。よくここまで全てを任せられたものだ。

でもここまで徹底して現実の中にゴジラを実在させることに集中したことが、返ってよい結果をもたらしたとも言える。

ストーリー

実はゴジラ復活時のストーリーは俺でも考えたことがある。実際にゴジラが東京に現れたら、日本はどう対処するのかと。あるいは低予算で作るなら、ゴジラが現れた東京で遠くあの足音を聞きながら生き延びるためのサバイバル映画にするとか。なので今回の話はある程度、想像の範囲内。まぁここまで徹底してるとは思わなかったけど、庵野はそれを描ききったのが偉かった。

実は「ゴジラのいる世界」という前提で作る映画は常に虚構(ファンタジー)の産物になってしまう。ゴジラが前提、は現実ではもちろんありえないため、対決する方も現実をはみ出してもいいだろう。だからスーパーXだったり機龍だったりするわけで(これは男の子的には心躍るメカなので否定はしないけどね)、ゴジラのいる世界に現実を寄せてしまった結果、現実が失われる。

今回のゴジラはゴジラであってゴジラでない。最初に姿を表す第二形態を見て「なんだこれ」と思ったはず。あれはゴジラじゃない。俺たちの知らない生物が現実の中にはみ出してきてしまったものだと認識させたことで、ゴジラを虚構じゃなく描ける世界が整った。つまりゴジラの方を現実に寄せたことが、ゴジラの実在感を作り出したというわけ。もちろんその後の対応も全て現実に則したものにしたことも大きな要因ではある。メインキャスト以外の扱いがああなったことも、現実の中にはスター(俳優)はいないという意味もあったのかもしれない(だから戦車に乗ってる斎藤工とか消防士の小出恵介とかにすげー違和感がある)。

結局、ゴジラって「出落ち」なのだ(出てきた時点で現実じゃなくなる、という点で)。だからゴジラシリーズはどれを見ても結局第1作を上回ることができない。そういう意味では今作は、今までのゴジラをリセットできた意味も大きい。

次回作は「火の七日間戦争」

そして普通に続編を作ろうとすれば、もうそこは「ゴジラのいる世界」なので虚構が前提になってしまう。とすればやっぱりビオゴジ(ゴジラ vs ゴジラ)のみが解決策になる。しかし虚構 vs 現実ではなく虚構 vs 虚構になってしまう時点で、ゴジラのリアルさは失われてしまうだろう。

あるとしたら行方不明の牧教授の線かなと、今日の鑑賞中にずーっと考えてた。彼は何を「好きにした」のか。あの言葉の裏にはもっと別の意味があるんじゃないだろうか。核エネルギーが嫌いで人間が嫌いな男が、他の手段を準備していたら。そして「凍結」された完全生物はその環境にさえ適応できるのではないだろうか。まぁこの線で押すのが一般的な線だ。

でも結局、庵野的には、ゴジラは進化して「巨神兵」になるっていう見解なんじゃないかと、ラストシーンのあの尻尾を見て思う。あの姿はまさにそれだし、そーいえばこのゴジラの能力ーどんな形にも変態し、すべてを焼き払う炎を吐く。空を飛ぶことも、自己複製で増えることもできるかもしれない完全生物ーは巨神兵のそれと同じだ。

つまりこれに続くのは「巨神兵、東京に現る」だったり、「火の七日間戦争」だったりするわけだ。人類が核という火を弄んだ結果生まれた異形が人類を滅ぼす。その形で続編を作れば、今回の構図ー虚構 vs 現実の形を保って進められる。……ただ人類の滅びを描くことができるかどーか、という一点だけが難しいだけで。

てな感じで、2回目の鑑賞を終了した俺は色々と考えてたわけですよ。今日からTOHO CHINEMASの1ヶ月無料パスポートも有効化したし、これから何度も観に行ける(とりあえず金曜は決まってるw)んで、もうちょっと考えてみるかもしれない。

庵野の作る話はこうやって常に、皆語りたがるものが多いよね。それは全ての謎を説明しない手法にあるのかもしれないし、突っ込める部分をわざわざ残しているからかもしれない。でも話題になるのはいいことで、それはTwitterのTLが証明している(俺のTL、とにかく凄い量のゴジラネタ)。

さぁ、次は新劇版を(とりあえず)終わらせてください>庵野。

Written by ei

8月 3rd, 2016 at 11:45 pm

Posted in Movies,Roadshow

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