エンダーのゲーム
原題:”Ender’s Game”
ヒューゴ、ネビュラ賞を獲ったあの名作が完全映像化!……と言われても、実は原作を読んでないのです。(マテ 人間のエゴが感じられる話よなーと。
50年前、突如地球を侵略してきた昆虫型生命体フォーミック。一人の英雄の特攻によってなんとか地球は救われたが、フォーミックの母星はいまだ健在であり、地球の危機は未だ去っていないと考えられていた。いずれ訪れるであろう再戦を前に、人類は新たな軍を再編。その中核として「ゲーム」の成績が優秀なまだ10代の若者を採用し、教育を施す。そんな中、新たに選ばれたのがエンダー。ずば抜けた能力を示した彼は候補者の中から全軍司令官に選ばれ、フォーミックと対峙していく。
かつてアメリカ人は、アメリカ大陸を手に入れるためにネイティブ・アメリカンを滅ぼした。居留地に集めて住まわせるなんてのは、動物園に閉じ込めるのとどこが違うんだと。しかもそのための施策として食糧であるバッファローを絶滅させている。なんという人間のエゴかと。白人たちは自分たちが理解できないものを恐れ、駆逐しようとするのだ。
その点、日本という国は他を「同化」しようとする傾向がある。どこかのコピペに「日本の文化は恐ろしい。徐々に侵入し、浸食されていく。しかもその過程が気持ちよいので同化されている側は気が付かない」というのがあった。(「お前たちは同化される、抵抗は無意味だ」)確かに日本は融和的な同化政策をとっていたように思う。……まぁ、相手が某国のようにどーしようもなければそれもまた無意味なんだが。
なぜかこの映画に関してはそんなことを考えながら観ていた。ま、それはエンダーが他者ーこの場合はフォーミックを倒すために相手を理解しようとしたことから、対話の道はないのかと考え始めるからなのだが。
自分たちの救世主として子供たちを戦争兵器として使う、しかし結局子供としてしか見ていないところなどまたさらにどーしようもない大人たちの姿はとても見苦しい。子供たちはこれを見て考えなきゃいけないのかもしれない。腐敗した大人たちの作った世界は間違っていて、それを変えることができるのは将来を背負う君たちなんだということを。
主演はエイサ・バターフィールド。「ヒューゴの不思議な発明」で注目された彼、細すぎる体格はいかにも新人類か。ヒロインのペトラにヘイリー・スタインフェルド。もうちょっと美人ならなー(相変わらず失礼>俺)。エンダーの上官になる提督にはハリソン・フォード。そしてベン・キングズレー。
監督はギャビン・フッド。「X-Men Zero」の人ですか。本人も映画に登場してたり。(もともと俳優)
原作を読んでないのでそれとの違いは語れません……読んでみますかねー。
日本人には、アメリカンな勧善懲悪の「エンダーのゲーム」よりも、
人類の救世主にして、平和な時代には(フォーミック種族の)皆殺しの汚名をきたエンダーの贖罪の物語と、
それゆえに、フォーミック女王のさなぎから復活をもくろむエンダーの心情の方が親近感が湧くと思います。
そして、続編「ゼノサイド」、「エンダーの子どもたち」へと続いてゆきます。
異人種との交流に上手く行かない、意思疎通が図れないといのは、現実の日本と他世界との間を見ている気もします。
悲しいことですね。
Kiyo
30 1月 14 at 13:59:23 edit_comment_link(__('Edit', 'sandbox'), ' ', ''); ?>
あっ、最初のところは、続編の「死者への代弁者」の話です。
Kiyo
30 1月 14 at 14:02:04 edit_comment_link(__('Edit', 'sandbox'), ' ', ''); ?>
映画はその「死者への代弁者」の部分も一部含んでいるラストになっていました。どんなに優秀だとしても、あの小さな子に惑星ひとつ、種族ひとつを滅ぼした重荷を負わせるのは、あまりにも酷い話だなーと思うし、それを正当化する大人の言い方は日本に原爆を落としたときと同じだな……なんてことも感じたり。
Eiji Ishii
31 1月 14 at 1:10:58 edit_comment_link(__('Edit', 'sandbox'), ' ', ''); ?>